2023.03.07
科学とは何か
こんにちは。
早良区西新の歯医者 松尾です。
今日は久しぶりの
「科学・サイエンス」シリーズです。
核心を突いた内容と思いましたので、ご紹介したいと思います。
改めて「科学とは何か?」
と考えるキッカケになればと思います。
*関連ブログ
アラン・セイボリー氏
ジンバブエの生態学者、農民、環境保護活動家、国際的なコンサルタント、セイボリー研究所の共同創設者であり、所長。
↓動画へのリンク
ーーーーーーーーー以下翻訳ーーーーーーー
科学について口うるさいこと言う人がいます。
科学とはなんでしょう?
修士号や博士号を取得して、大学を出た人たちを実際の現場に連れて行ったとしても、彼らは文字通り、*査読(さどく)済みの論文でなければ何も信じません。
*査読(さどく)
投稿された論文をその学問分野の専門家が読んで、内容の査定を行うこと。
彼らに
「観察しよう、考えよう、議論しよう」と言っても、彼らはそれらをしようとはしません。
「査読付きの論文かどうか」だけです。
それらが彼らの科学観です。
哀れなことだと思います。
優秀な若者として大学に入ったのに、
役立たず(脳死状態)になってで出てくるのですから。
科学が意味することも知らずにね。
彼らは「査読付き論文」を「科学」だと思っている。
ちがう。それは単なる学界(学者の社会。大学や国立研究所のような、国の研究機関)なのです。
論文が査読されるということは、
学界のみんなが「そうだ」と考えたから、「論文として認められた」ということです。
予期せぬ結果としてですが
新しい知識によって、新しい科学的洞察が生まれるとき、それらは決して査読されないので、科学における、最新の大きな進歩を阻止していることになります。
科学におけるブレイクスルー
(進化や進歩の障壁を従来にない方法によって突破すること)を見てみると、ほとんどの場合、
その専門家の中心からではなく、
「周辺」(2次的、非主流派)から起きているのです。
たとえば
世界最高のろうそく職人は、電灯のことなど考えもしなかったのです。
それらは内部からではなく、しばしば外部から生まれてくるのです。
わたしたちは愚かさにより、
自殺しようとしています。
ーーーーーーーーー翻訳終了ーーーーーーー
一部動画とは訳が違いますが、解りやすいように修正しています。
中野 信子氏
日本の脳科学者、評論家。 東京都出身。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。株式会社ビッグベン所属。MENSA元会員。学位は博士。
上智大学で行われた脳科学者・中野信子氏の講義の模様をお届けします。
今回のテーマは「遺伝と環境」。
本パートでは、「知能」と「遺伝」の関係性について語られました。
ーーー「遺伝と環境の問題 パート2」から引用ーーーーーー
科学は、誰がどうツッコんでもいいという前提がある。
高校までのお勉強は、先生の言うことを、基本的には「はい、そのとおりです」と頭から信じるところから始まったと思います。
けれども、大学ではそうとは限らない。
少なくとも、自然科学における研究というのはそうではありません。
これからみなさんも自然科学の論文をどこかで読むかもしれないと思います。
もうすでに読んでいる人もたくさんいるでしょう。
自然科学の論文というのは、
*御説拝聴(おせつはいちょう)という姿勢で読んではいけないものなんです。
経典や聖書のように読むものではない。
*御説拝聴(おせつはいちょう)
目上の者や専門家の意見や意向などを伺う。
完全な聞き役にまわる。
反証可能性(誤りをチェックできること)という言葉を聞いたことがありますかね。
科学というのは、まず疑うという姿勢から入ります。
論文も一言一句、批判的に読むべきものです。
「この人はこう主張してるけど、こういう矛盾があるじゃないか」と、いちいちツッコミを入れながら読むものなんです。
これが自然科学の最初のトレーニングといってもいいかもしれない。
誰でも、その主張に対して疑義(疑問に思う)を呈してよい。
反証可能性があるということは、科学を正しいものにする*縁(よすが)なんです。
*縁(よすが)
よりどころ。物事を知る手立て
科学哲学を志している人もいると思いますが、このあたりはとても大切なところじゃないでしょうか。
その唯一の縁(よすが)である反証可能性を保持して対峙しなきゃいけない。
誰がどうツッコんでもいいというのが、科学の前提です。
そういう意味では、
誰にでも開かれている学問だともいえる。
どんなに貧乏人でも、自信がなくても、性別も人種も年齢も、学歴ですら関係ない。
誰でも、おかしいと思ったらツッコんでいい。
「あなたの言ってることは、ちょっとここがおかしいんじゃないか」と言うことが誰にでも許されている。
裸の王様を裸だという権利が誰にでも与えられている、というのが自然科学の本来あるべき姿です。
10年前に唱えられていた通説が、10年後には覆ってる可能性がある
宗教はそういう構造をしていません。
どちらがいいとか、優れているとかいう主張をしているんじゃないですよ。
ただそういうものだ、という話をしています。
宗教はある程度の権威を必要とする、という基本的な構造を持っています。
誰それさんからの認可を得た、ある特定のこの人の意見が正しい、という、
*属人性(ぞくじんせい)に依拠した証明の構造を持っています。
*属人性(ぞくじんせい)
「身分や能力などの人に属する性質」という意味になります。
つまり、組織内やビジネスシーンにおいて、その人に「どの程度依存している仕事であるのか」の度合いを示す時に使う言葉です。
例)Aさんがいないと仕事が回らない
自然科学はそうではありません、ここはきわめて対照的ですね。
高校までの勉強は、そういう意味ではやや宗教に似たところがあるのかもしれない。
自然科学は、誰にでも平等に反証する可能性が与えられています。
私の言っていることに関しても、
「そこがおかしいんじゃないか」と、誰でも言っていいんです。
論文もそうやって読まないといけません。
「こんなに偉い人がこういうふうに言ってるけど、やっぱりここがおかしいんじゃないか。自分は実験的にこういう手順を踏んで、こうしたら違う結果が出るかもしれない」
と、確かめることをしていい。
それを歴史に残る形で行ったのが、近代科学の父ともいわれるガリレオですね。
「公権力や宗教的権威が示している内容と、違う事実を自分は見てしまった。
それは、敢えて強く主張するまでもなく、まぎれもない事実だ。
社会的地位のある人の主張と違う事実を発表してしまって、怒らせてしまったけれど、彼らに対して謝罪するくらいは何でもない。
けれど、それでも、自分が観察した事象は曲げようがない……。」
あくまで推測ですが、ガリレオはこんな気持ちだったんじゃないでしょうか。
また、10年前に唱えられていた通説が、
10年後には覆ってる可能性もあります。
今私がみなさんにお伝えしたことも、
10年後には覆ってる可能性があるという前提で聞くべきものです。
『ホンマでっか!?TV』という番組がありますけども(笑)。
あれもタイトルが秀逸で、
「ホンマでっか!?」という気持ちで視聴するのが科学的態度なんですよ。
科学は宗教ではない。
みなさんにも反論する可能性が平等にある。
その可能性、その反論する権利を十分に活かさなくてはならない。
それが科学です。
ーーーーーーー引用終了------
情報の信頼性
情報には大きくわけて
① 一次情報
② 二次情報
③ 三次情報
の3つがあります。
一般的に情報の信頼性の高低は
一次情報 >>> 三次情報
一次情報は高く、三次情報は低くなります。
ーーーーーenago academyより引用----
① 一次情報とは、特定の理論や事象、研究を経て得られた結果についての研究者本人の考えや新事実などです。
実験データ、調査結果、アンケート集計結果、統計など、研究によって新たに判明したものです。
② 二次情報は、研究の背景や過去に試された手法など、一般的には一次情報を詳しく解説あるいは補足する情報です。
③ 三次情報とは、情報源が定かではない情報のことで、これには噂話のようなレベルも含まれています。
インターネット上には三次情報が氾濫していますが、SNSやインターネット上ではこうした「三次情報に惑わされない」姿勢と
*リテラシーが求められています。
*リテラシー
ザックリ言うと「使いこなす能力」のことです。
ーーーーーー引用終了ーーーーー
科学的洞察の見直し
ここからが重要なのですが
論文を含む「一次情報」だとしても、実際は*玉石混交(ぎょくせきこんこう)なのです。
*玉石混交(ぎょくせきこんこう)
すぐれたもの、つまらないものが、入り混じっていること。
なぜなら
論文であっても、意見が分かれているからです。
たとえば
「コーヒーは体に良いか?悪いか?」
という論文テーマがあるとして
Aさんは「コーヒーは体に良い」と主張
Bさんは「コーヒーは体に悪い」と主張
している場合が多々あります。
結局どっちなの?と疑問を持つと思います。
なので重要なことは
基礎知識や予備知識をフル稼働させ、可能な限り情報を収集し、
・解釈
・分析
・考察
した上で「実際どうなのか」を加味して、最終的な結論を出すことが求められます。
当然ニュートラルな姿勢で取り組む必要もあります。
三次情報は信頼性が低いかもしれませんが、必ずしも「間違い」とは限りません。
学界の人たちは
「論文以外は受け入れない」
「論文=エビデンス(科学的根拠)」
という姿勢の人が多い傾向なので、
仮に「正しい三次情報」があったとしても、取りこぼしてしまいます。
中野 信子氏が言う
「科学は、誰がどうツッコんでもいい前提がある」
ことを忘れている印象を受けます。
アラン・セイボリー氏が言うように
本当の意味で「科学的洞察力」があれば、
一次情報でも、三次情報でも、
自分でその真偽を精査・検証できるはずです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
わたしもいつも「自分の言動すら疑う」姿勢でいます。
現在は自分の言動が「正しいように」見えていたとしても、
あとから「あれは間違いだったな」と気づいたとき、それを修正するためです。
わたしの師匠の一人が
「ある一つのテーマに関してでも、
論文や一般書籍も含めて、3箱分くらい
ドサっと購入し、端から端まで目を通してから結論を出す」
と言っていました。
「論文以外」の
一般書籍や新聞、雑誌、広告、
インターネットからも情報を得る、
それに実体験も加味する。
情報の「偏りが減る」ことがとても重要なことだと思います。
アラン・セイボリー氏が言うように
『科学は「周辺」から生まれる』
という初心を忘れずにいたいと思います。
わたしの定番フレーズ
重要なのは「情報の質」と
それを見分ける「目」です。
この真意がお届けできればと思います。